広島学院12Kサッカー部の歴史

広島学院12Kサッカー部の歴史


広島学院12Kサッカー部 6年間の歴史

広島学院12Kサッカー部は、昭和42年9月からのクラブ活動開始で20名が入部した。
思春期の成長が早いのか、井筒、小田、西本、谷、小松などの体格は大きく、谷などは完全に中3くらいの先輩だろうと思ったものである。また、古田小の大嶋、船越小の小松など、小学校でかなりサッカーをやっていたものもあった。

余談であるが、広大附属中学・高校サッカー部の福原監督(全日本ユースサッカー監督)が、私(石川)の父のサッカーの弟子であった関係で、レデスマ先生へ電話されたそうであるが、話が通じないので「い・し・か・わ、いう子供がおったら全部サッカーへ入れてたらいい」と伝えられた。さっそく、レデスマ先生は1年生の教室へ来られ「いっしかーわ! いっしかーわ!!」と大声で探し回られ、「はいっ!」と緊張して返事すると、「おぉ! 君は今日からサッカー部!」と相成った。

12Kサッカー部 : GK 井筒、石堂、
DF 柳沢、小田和正、西本、富田、佐久間、吉田耕、玉井
MF 谷、岸、石川、岡田、町野
FW 中村、可部、小松、大嶋、吉田正、佐々木

スペイン人の熱き血潮のレデスマ先生の練習は超々ハードで、スライディングタックルをものともしない選手が褒め称えられ、当たり負けすると「何する、お前が!」と容赦のない怒鳴り声が響き渡る。サッカーなのか、闘牛なのか、よくわからない練習も数多くあった。戦術は『キック・アンド・ラッシュ』、日本語で言えば『百姓一揆』で、背が高くてキック力のある選手がバックス、俊足でヘディングが強いものがフォワードというメンバー構成が多かった。

レデスマ先生はふだんは物静かな生物の教師であるが、この先生に「どんな相手でも恐れるな。負けることは全く考えるな」というスピリットを、12Kサッカー部は教え込まれ、「自分を鍛えよ」という言葉をいただいた。
12Kが中2の頃、レデスマ先生が映画館へサッカー映画を観に連れて行ってくださった。1966年イングランドでのワールドカップの記録映画であったが、きれいに刈り目のついた芝生のコート、メインスタンドに各国の首脳がずらりと並ぶ聖地ウェンブレー・スタジアムでエリザベス女王が「サッカーは筋書きのないドラマです」という言葉を添えて開会宣言、執拗なタックルで重傷を負ったペレを失って敗退する王者ブラジル、ドイツ魂の権化ウーベ・ゼーラーの執念のミラクルシュート、若きベッケンバウアーを子ども扱いするイングランドの英雄B.チャールトン、決勝戦でハットトリックを達成するハースト、そしてバーに当たったボールが真下に落ちたのをゴールとするかノーゴールとするか疑惑の判定、サッカーの母国イングランドの初優勝‥‥。こんなサッカーがあるのか、こんなレベルがワールドカップというのか、と驚きの連続であった。

昭和44年3月にレデスマ先生が栄光学園へ転任され、サッカー部監督は大橋剛夫先生に代わった。大橋先生は タレント揃いで相当強かった中学時代の11Kに比べ、12Kは頼りない学年に映ったものと想像される。この時代のサッカーは、スピードでは広島市内でも10本の指に入るFWを5人揃えたうえに中盤にもスタミナ抜群で闘争心の強い選手を配しているという、高度な『キック・アンド・ラッシュ』戦法であった。大橋先生もレデスマ先生並みに負けん気が強く、強豪相手になればなるほど燃える采配を振るわれた。しかし、雨の日も風の日もサッカー部の面倒をみられた無理がたたって長期療養を余儀なくされ、西条の療養所に入院された。「石川、病院には冷蔵庫がのうて冷たいモンが飲めん。氷を持って来い」とおっしゃるので炎天下、自転車に大きな氷の柱を積んで長い道のりを運び、到着した頃には大半が溶けていたという、古典落語の世界のようなおはなし、もあった。

中3の秋のライオンズ大会では、無失点で3回戦まで乗り切り、準決勝で宿敵、というより遥かに高いレベルの難敵・似島中に 2-1 の逆転勝ち! 夢のような嬉しさであった。決勝は試合巧者の船越中、結構攻めたが点が奪えず、延長戦までノーゴールで 0-0 の引き分け優勝。

その後、広島大学ヨット部出身の丸山喜正先生が高校サッカー部監督になられた。先生はあまりボールは蹴られず、得点も「いっこん、にこん」と数えられたユニークな監督だったが、サッカーに取り組む情熱を内面で燃えたぎらせるタイプであったように思う。また、囲碁をされるためか、大局観をもって数手先を読む手法で指導をされた印象である。「おまえさんら、思うようにやってみいや」と言うのは簡単だが、本気で生徒に任せるのも度胸が要ることであろう。
丸山先生は、監督就任直後に10K(杉原さん・田丸さん・川田さんら)が新人戦優勝、11K(金子さん・肥田さん・梶本さん・松田さんら)が1年生大会優勝、と指導力と強運を発揮され、広島県高校サッカー協会がざわついた。

我々12Kは、高校時代には同級生のメンバーが減っていたが、残ったものと新入りの山野・山縣・西村・牛尾・小田康弘は一途にサッカーに打ち込んだ。高1の終わり頃、11Kから「お前らはひとつ下の学年だが、キャプテンをしてくれんか」と申し入れがあり、石川が引き受けた。しかし、その1年は難しいチーム事情でもあり、良くてベスト8止まりで消化不良の苦しいサッカーであった。沈滞ムード・閉塞感を払拭するものとしてサッカーの夢舞台「ワールドカップ」があった。

12Kが高1から高2の頃、金曜日の深夜に「三菱ダイアモンド・サッカー」という番組があり、1970年のメキシコ・ワールドカップの試合が放映された。キング・ペレ率いる常勝カナリア軍団・ブラジルが高地メキシコの炎天下での試合ながら驚異の破壊力で得点を重ね、順調に勝ち続ける。一方、ヨーロッパの雄、カテナチオ(錠前サッカー=堅い守り)の地中海ブルー・イタリアもしぶといサッカーで勝ちあがり、準決勝では前回優勝のイングランドを3-2で下した西ドイツと延長まで激闘を繰り広げ4-3で勝利して決勝へ。決勝は、ブラジルが激しい中にも優雅なサッカーを展開し、4-1という圧倒的なスコア差をつけた。特に4点目のゴールは素晴らしく、ペレが右に流したボールを受けた主将カルロス・アルベルトが渾身の右足シュートを放ってゴール左に突き刺し、イタリアを完膚なきまでに叩きのめした。ペレ、ジャイルジーニョ、トスタン、ゲルソン、リベリーノの多彩な攻撃陣は何年経っても史上稀に見る高いレベルと語り継がれる。3度目の優勝を果たしたブラジルは「ジュール・リメ杯」(ワールドカップ創始者名)の永久保持国となった。ちなみに、以後は「FIFA ワールドカップ」というトロフィー名になっている。

このTV番組はサッカー部ならずとも観ていたものは多く、「みたか? すごかったのー」と土曜日の朝は前夜の放送の話題で持ちきりであった。我々が勝てない時代、サッカーの楽しさ・素晴らしさを教えてくれて、グラウンドに出てボールを蹴るだけでワールドカップにつながる夢を与えてくれた「ダイアモンド・サッカー」に感謝したい。

その後、12Kが広島学院高校サッカー部の最高学年になってサッカーのスタイル、フォーメーションを全面的にやり変えた。我々は「責任はワシが取る!」と懐の深い『いっこん先生』の庇護のもと、練習計画・フォーメーションを自分たちが考え、対戦相手ごとに戦術を変えるというやり方で広島市商、広島県工など強豪チームに立ち向かった。ほとんどのチームが4-3-3 であったが、学院はあえて 4-2-4 の布陣で、今では当たり前の前線からの守備を徹底させ、守った直後のDFはMFへパスをつなぎ、MFはウィングサイドへゴロのパスを供給する、FWは縦への突破が難しければMFを経由して何度でもサイドチェンジをする、ゴール前ではMFへ落としてミドルシュートを意識する‥‥、などをミーティングで徹底させた。

① 俊足・超絶スタミナの小松がFWにいるとキック・アンド・ラッシュから脱却できないため、中盤に下げる。 これには「わしゃあ、反対じゃの」と言われる丸山先生と「誰が点を取るんなら」と言う小松への説得が難航し、 丸1ヶ月を要した。

② 4-2-4のフォーメーションでMFを小松・石川の二人とし、4-3-3の他チームの3人MFに対抗する。 中盤が2人、しかし小松の運動量+両サイドバックの攻撃参加で、必ず中盤を経由する攻撃を組み立てる。

③ 谷・対馬のウィング サイドにはゴロのパスで足元に送ることを原則とする。 ロングキックでウィングが何度も走らされるチームは連戦では勝てない。相手中盤を崩すことが出来ていればむやみに走らなくてもパス・ドリブルで攻めのテンポは出来る。

④ MFはサイドチェンジをいつも意識する。 誰もパスより速く走ることはできない。サイドチェンジは強いボールをきっちり止めて正確につないでこそ成り立つことを全員が理解する。

⑤ 大嶋を中心にFWの守備を徹底する。 守備はバックスがするという時代ではない。前線から相手を追い回してボールを奪い、全体で繰り返し攻める。 MF・DFが積極的に上がったら、カバーリングを徹底する。

⑥ 大屋・吉川の両サイドバックスは攻撃参加を増やす。後でどこに戻るのか、誰がカバーするのか、中野が指示。 攻撃参加が実れば良いが、不発のときにはスイーパー中野から守備の指示を細かく出す。 取ったボールを縦へ蹴りだすことは相手が助かる方法。必ずMFへつないでおいて攻撃参加をする。

⑦ DFは金井がストッパー、中野がスイーパーで、相手のトップを縦には走らせないこと。 一発目のヘディングはすべて金井・小松・石川が競る。遠くへ飛ばすのではなく、味方へのパスにする。
落としを受ける側の声と一歩動くことが必須。

⑧ サイドバックがスイーパーのカバーで中に入ったら、逆の相手FWはMFかウィングが帰ってマークする。 相手のサイドチェンジへの対応が遅れたら失点する。ボールに集中しすぎるときには逆サイドのマークをFWが 帰ってでもすること。GKは逆サイドのカバーを早めに指示すること。

⑨ 山口はボールを取ったら、先にMFの位置を確認し、縦へ急がないこと。 FWのラインにボールがつながって、すぐにそこから縦パスではゴール前に詰める第2列は間に合わない。 必ずMFを利用して攻めを組み立てること。

⑩ 掛け声ではなく、意味のある声を出せ!   試合中に必要な声は指示の声である。負けて泣くことがないように、必死になって声を出せ。

高2の3学期の新人戦から、新スタイル・新フォーメーションの学院サッカーが姿を現した。
練習時間が少ない学院では、一生懸命全力でがむしゃらに試合をしても善戦健闘に終わることが多かったので、逆に冷静によく考えてサッカーをするやり方に変えた。相手の監督が何を考えているのか試合を見ては分析し、相手の上手さや弱点をチェックして戦法を変更する。ロングキックは多用せず、一直線に相手ゴールに殺到することはほとんどなし。どんなに難しくても中盤を経してボールを運び、中盤重視・サイドチェンジのパスにこだわった展開で相手の中盤をじわじわと崩す作戦だ。
要点は「正確な速いインサイドキック」と「見事なほどのトラッピングと素早い体のターン」、そして「逆を見る眼」だ。この3点を習熟するための練習方法は、市内のどのチームも気が付いてはいなかっただろう。

直前の練習試合で結構強かった工大附に 11-0 の大勝をして自信を深めたが、FWの4人とMFの2人、さらにサイドバックまでもが点を取ったのが嬉しかった。学院はゆっくりと攻めあがるのに、相手ゴール前では敵より味方のほうが多いというという全員攻撃が間に合う試合運びに相手は茫然とするばかり。つまり、サイドチェンジのボールに振り回されてポジションを失い、追っかけては固まってマークを忘れる羽目に陥る。学院の両ウィングは足元にボールを置いてドリブルを仕掛け、ペナルティエリア内でもパスを次々とつなぐ。MFは充分にゴール前に届いて待ち構え、ドッスンとミドルシュートを叩き込む。相手ボールになってもFW・MFが追い詰め、取ったボールはすぐさま逆サイドへ運び、横から攻める。

このチームでどこまでできるのか、高校新人戦が試金石の大会となった。2回戦までは福山会場で行なわれ、広大附福山、東城高を退け、3回戦の国泰寺高、4回戦の海田高の難敵もそれぞれ1-0で勝ちぬいた。準決勝では強豪の県工と対戦、他のチームでは有り得ない 4-2 の逆転勝ち! 自分たちも驚いた。最後は、強かった似島中のチームごと集結した市商との決勝戦。新聞の扱いも大きくなり、広島テレビの放送もある。グラウンドはあこがれの県営競技場だ。日本サッカーリーグで釜本や小城がプレーしている芝生のグラウンドと考えただけで夢心地であった。

試合は緊張のなか始まったが、意外なことに開始数分で対馬のセンタリングを谷が豪快なヘディングで叩き込み、貴重な先制点を挙げた。「こりゃ、いけるかも」と調子が出て、いつものパス・アンド・ランとサイドチェンジがのびのびと展開される。ペナルティ・エリアの角で得たFKを石川がチョップキック ( こんなキックは当時誰もしていなかったはず ) で壁を越し、バウンドしたボールを対馬がボレーで鮮やかに打ち込み、意外な2点目が入る。ハーフタイムでは「まだ油断できんぞ!」と引き締めの言葉を皆が口にし、0-0 の気持ちで後半に臨む。一進一退の攻防が続いていたが、右サイドでFK.。普通、右足インフロント・キックでカーブをかけるのだが、背の高い2人のDFとGKが待ち構えるところでは素直なボールは跳ね返されると考えた石川は、敢えて左足で鋭いカーブキックを送った。TVの解説も「この選手、左右の足が違いますねー」と言っていたらしいが、果たしてGKが飛び出てこられない位置で、大きいDFの裏へ来たボールには相手の対応が遅い。混戦となって大嶋が倒され、PKの笛。これを小松が珍しくも左サイドネットへずばりと決めて3-0 のリード、こんな試合になるとは誰も予想できなかった。そのままタイムアップの笛が鳴り響き、歓喜の優勝!

新人戦の3位まで(学院、市商、県工)が中国選手権に出場する。山口市山口大学のグラウンドで開催されたが、大雨でぬかるみのひどいグラウンドであった。学院は『くじ運』に見放され、他県の強いところとばかり対戦する組み合わせ、しかも体力がいる雨のグラウンドでダブルヘッダーという悪条件。しかし、何とか技術と気力で頑張り、市商・県工・学院で1位~3位を広島が独占した。

県高校総体=インタハイ予選は、予選を勝ち抜いた32校で決勝トーナメントが行なわれた。予選リーグを無敗で勝ち上がった広島学院は栄光の第1シードである。竹原高、基町高に大勝し、準々決勝では舟入高を2-1でなぎ倒した。 ベスト4には学院、県工に2-0で完勝した修道、山陽に2-1で競り勝った広大附、国泰寺に2-0で退けた市商という4チーム。

準決勝で学院と対戦する修道には父兄が大勢応援に来ており、「今日はまあ、学院相手ですから‥‥」と余裕で決勝戦のことをしゃべっているのを聞いて頭の中で「ブチッ!」と音がした。その日、修道は模擬試験の日であったが、春先からOBの叱咤激励、強化につぐ強化で力をつけてきた修道チームが勝つものと期待して、試験をボイコットした生徒が大挙して皆実高グラウンドへ押しかけ、大応援団がワーワー叫ぶ中での試合となった。しかし、学院は冷静に試合を進め、山口の意表をつくロングシュート、対馬の相手ガックリ技ありシュート、古田の強烈左足スーパーボレーシュートでトドメ、と後半に挙げた3点でレベルの差を見せ付けて快勝した。大敗が信じられない修道応援団はいきりたち「試験も受けずに来とるのにどうしてくれるんなら! わりゃー、帰りに西条の駅で待っとれ!」と我々を脅すものも出る始末。
いやー、気持ちの良い勝利ではあった。

インタハイ県予選の決勝の相手はまたも広島市商。市商は準決勝で広大附に2-0とあっさり勝利し、楽に駒を進めた感がある。この試合、自信を持って臨んだが、炎天下の3連戦でケガ人が多いことが災いしたのか、2-1で勝利寸前のところを同点ゴールを決められ、延長で2-3を逆転を喫して敗れ去った。

ホームルームの時間を応援に当ててくださるという英断のおかげで、バックスタンドを埋め尽くすほどの母校サポーター軍団の声援がなにより嬉しかった。試合結果は残念であったが、燃焼しつくした。